東陽ふれあいネット_浜寺公園まで歩いてデイキャンプ(20231123)

子育て・コミュニティ・公園

2023年11月23日(祝)に行われた、東陽ふれあいネットのイベント「浜寺公園まで歩いてデイキャンプ」の資料を載せています。

当日の様子

晴天に恵まれ、東陽中学校を出発し、ロシア兵墓地・忠霊塔、破魔地蔵尊、助松村境石造物群、紀州街道・田中本陣、高師浜、浜寺公園を巡り、浜寺公園駅から泉大津駅まで南海電車に乗車し、東陽中学校に帰りました。

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地図

①ロシア兵墓地・忠霊塔

ロシア兵墓地は、明治37年、38年の日露戦争での捕虜(ほりょ)収容所が泉大津から高石の浜辺にあり、そこで病気などで亡くなられた89名を埋葬しています。

お墓の形が違うのは、埋葬された方の宗教や母国が違うからです。他の国出身の人も、ロシアの為に戦争に参加しました。その人の宗教と国の言葉でお墓に名前が彫られています。

5カ国語で書かれたモニュメントがあります。中央には「死せるロシアの兵士たちに捧ぐ 旅順の戦友たちより」の記載があり、旅順で戦い捕虜となった戦友達が寄付を集めて建立したもの。

自然石を使った石碑は、大津村民の寄贈で設立された。

七号に埋葬されている「ガリシュペイン・ハイム(エフィム)」は、イスラエル建国の英雄として有名な、「ヨセフ・トルンペリドール」の友人であった。そのため、イスラエルから「特別な人物が眠る墓碑であるので、周辺を柵で囲って欲しい」と要望が出され、柵で囲われていた。「ヨセフ・トルンペリドールは、旅順降伏により濱寺捕虜収容所に入り、准士官であったため、日本側と交渉にあたり、捕虜収容所内に学校・図書館・職業訓練校などの施設の開設、収容所内での新聞「エフイスカヤ・ジンジン」を発行するなどの活動を行った。イスラエル建国の指導者で「片腕の建国英雄」と呼ばれています。

忠霊塔は、第2次世界大戦で亡くなられた泉大津市出身の940余柱をお祭りしています。

②破魔地蔵尊

海にお地蔵さまが流れ着いたとか、流れ着いた木材を加工してお地蔵さまを作ったとの伝説があるお地蔵さまです。浜と同じ読みの破魔の名前で、レンガ造りのお社にお祭りされています。

③助松町村境石造物群

助松地地蔵堂、西国三十三度供養塔、徳本上人名号碑、六十六部供養塔があります。

歴史的遺産として、「大阪ミュージアム登録物」「泉大津ふるさと文化遺産」に指定されています。

村の境目(さかいめ)は、村に災いが入ってくる場所として、お地蔵様や神様を守り神として祭る風習がありました。

昔、地蔵堂で寝た旅人が、村に生まれる男の子の寿命を決める会議をお地蔵さま達がしている夢を見ました。旅人が村の人に今日生まれた赤ちゃんがいるか質問をしたところ、今日生まれた赤ちゃんがいた伝説があります。

六十六部供養塔は、紀州街道を通っていた僧侶が寿命を悟り、「鉦の音が途絶えたら埋めてくれ。」と言い、穴を掘って、その中で鉦を叩き続けた。1週間後、鉦の音がしなくなり、村の人は穴を埋めて、その上にお墓を作ったとの言い伝えがあります。

④紀州街道・田中家住宅(助松本陣・田中本陣)

江戸時代、紀州(和歌山)の徳川家が江戸に大名行列をするとき、庄屋をしていた、田中家で休憩をしていました。身分が高い人が休憩・泊まる場所を本陣と言います。

紀州街道は、大阪と和歌山を結ぶ昔からの道です。

⑤浜寺公園

明治当初、多くの松が伐採されました。

大久保利通が訪れ、古来よりの松の名所だったこの地の惨状をみて、伐採を中止するよう命じました。伐採は中止され、明治6年に、堺県により、公園に指定されました。

ユースホステルの向かいには、日露友好の像があります。

園内には、交通遊園やプール、運河、700m以上の桜並木があります。

⑥浜寺公園駅

明治40年に建替えられた駅舎で、東京駅や大阪市中央公会堂の設計でも知られる辰野金吾博士の事務所が設計しました。大手私鉄では初めて、平成10年に諏訪ノ森駅と一緒に国の登録文化財に登録されました。 今は、工事で建物の場所を引越ししています。

参考文献

おほつ研究 Vol.11 発行 泉大津市教育委員会・泉大津市立織編館 2018年3月発行

文化財調査報告19 泉大津の伝承文化 発行 泉大津市教育委員会 1989年3月31日発行

高石市史 第1巻 本文編 発行 高石市 編集 高石市史編纂会 平成元年3月30日発行 

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